空越さんの略歴
空越さんはどんな方だったのか。
なぜ在家仏教をはじめられたのか。
その当時、生きておられたころの時代背景はどんな時代だったのか。
空越庵に残された遺物からひもといていきます。
空越(小幡為次郎)さんは、明治14年(1881年)4月22日、小幡治助(父)とコト(母)の次男として生まれました。京都市上京区川端で幼少期を過ごしたと思われます。
その後大阪に奉公に行かれたようです。
明治40年(1907年)7月にアイさんと結婚、大阪市西区本田町通り1丁目で分家届を出しているため、この当時は大阪にいたと思われます。その後、京都市北区紫野西野町(今の空越庵の所在地)に本籍を移転しています。
空越さんは在家仏教の更生会を作り、戦前より集会を開いています。
会報なども発行していて、更生会墓は大阪の霊園にあります。
空越さんをはじめ、当時の信者の方々も埋葬されているものと思われます。
昭和14年(1939年)10月アイさん死亡。
昭和17年(1942年)9月に彰雄さん死亡。
相次いで、大切な家族を失った空越さんの悲しみはいかばかりだったでしょうか。
昭和30年、養子として島田加寿子さん(明治41年生まれ)を迎えます。
大阪市西区時代の縁で、空越さんの身の回りのお世話をするために養子になったと聞いています。
この小幡(島田)加寿子さんが、私たちの遠縁にあたる方です。
そのご縁から、私共が空越庵を引き継いでいるというわけです。
明治~大正時代の学校
家の中からでてきたものの中に、空越さんが小学校時代(明治時代)の証明書があります。
京都府平民と記載があることに、ちょっと😲。
明治維新後、士農工商の江戸時代の身分制は廃止されていても、別の身分制が存在していたということを現実として実感しました。
今では、ちょっと考えられないです!
次は空越さんの長男、彰雄さんの証書です。
大正時代のこの証書には、平民の文字は見当たりません。
今の小学校では、学級委員は民主的にクラスの投票で決めている印象がありますが、当時は先生から指名されていたのですね。
大阪市立本田小学校は、明治9年に創立されています。
大阪市西区川口居留地跡地に建設された小学校で、西洋文化にも触れ先進的な取り組みを取り入れていたということです。
学年の終わりに、一年間の努力や成果を評価されて賞状と賞品を授与されたようです。
空越さんの仕事
表具師の仕事を大阪でしていたころの印でしょうか。
ちょっとさかさまで読みにくいですね。
関東大震災への寄付の記録
大正12年9月に関東大震災の寄付をされていた記録が残っています。
小幡為次郎(空越)さんのお名前が記されています。
1923年に発生した関東大震災に、寄付を集めて支援が行われていたということがわかりました。
現在のように、テレビやインターネットのない時代ですが、大変な災害が起こったということで日本中の人々が心を痛め自分にできる支援をしたのだと思います。
在家仏教の足跡
在家仏教更生會という名前で、定期的に修養会が行われていました。
今も、空越さんが書かれた巻物、書物、信者さんが録音されたオープンリールのテープ(音が出るか不明)などたくさん残されています。
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